QOLの基礎理論

清水哲郎

これは第一回日本緩和医療学会における発表の原稿です。下書きなので、完成された かたちにはなっていません。あしからず。

本発表は、医療の現場で使われているQOLの概念を検討し、精確に規定したうえで、 これを医療一般の目的記述に適用し、かつ、そのもとで緩和医療の理論構成の基礎を明 確にしようとするものである。QOL概念は、歴史的経緯からいえば、従来の医療の目的 設定に対する補完的なものとして登場したとはいえ、理論構成においては、むしろQOL 概念を基礎にして医療の一般的目的の方を書き換えるべきである、と本発表は主張する。

(1) QOL一般について考えると、QOLを生活した結果の満足ないし充実度として理解す るか、生活がそこでなされる環境として理解するかの選択肢があるが、後者がより適切 であるとする立場から、QOLを次のように規定する。すなわち、一般にQOL評価は、評価 の対象となる環境が、その環境に置かれた人の人生のチャンスないし可能性(選択の幅) をどれほど広げているか(すなわち自由度)、についてなされるものである。

(2) 医療におけるQOLもまた、このQOL一般の規定に即して規定できる。すなわち、患 者の身体的な苦痛や精神的な苦痛等に注目するときにしていることは、患者自身をその 生きる環境と看做して、それが患者をいかに自由にしているか、または束縛しているか を評価することなのである。これを「身体環境のQOL」と呼ぶことにする(医療において 注目されるQOLには、この他に「医療環境自体のQOL」もある)。

(3) このように理解すると、医療が従来注目してきた患者の健康状態の評価もまた、 QOL評価に還元することができる。つまり「健康状態」は、(評価の時点における身体環 境のQOLではないが)評価の時点以降の人生を時間軸に沿って見通した場合に予測される 身体環境のQOLの積分ないし総和と等しい。

(4) ここから、医療が一般に目指すことは、「QOLの積分を可能な限り大にする」こ とであるということができる。治癒的医療の目的はまさにこのことにほかならない。こ れに対して緩和医療は、「患者の現時点におけるQOLを高める」ことを目指すものとし て規定されるが、緩和医療を選択する際の基準は「QOLの積分がより大になるかどうか」 に求められるのであって、これもまた医療一般の目的設定のもとに含まれることになる。



医療における〈QOL〉という用語の混乱

[この項は原稿がありません] 定義の必要

現実の使用の範囲とそう変わらない

問題がきれいに整理できる

緩和医療の基礎理論を構築する



QOLは生が置かれた状態の評価

〈よく生きる〉・〈充実した生を送る〉・〈よい状態〉 

Quality of Life という概念は人間の生のよさを何らか評価する視点であるには違いない。では、どういう人間の生の〈よさ〉を評価するものであろうか、また、あるべきか。

〈よく生きる〉・〈充実した生を送る〉・〈よい状態〉の3つを区別することができる。

〈よく生きる〉というのはこういうことである。つまり、 「どのような生き方が〈よい〉か(=本当の幸福か)は人間には分からな い」と言って問題にする〈よい生〉がある。宗教家はそれぞれの信念に基づいて「 こう生きるのがよい」というであろう。また「哲学的議論の結果、ある生き方が よいとなるかも知れないが、すべての人がそのような議論を受け入れるとは限ら ず、したがってこの点についての共通理解は事実上ない」と主張されることもあ ろう。このような時、私たちは〈よい生〉と言って、置かれた状況に対してどの ような姿勢で対応しようとしているか、という意味での生き方を考えている。

次に、「充実した生を送っている」という意味で「よく生きる」という ことを語る場合がある。これは置かれた状況のなかで生きた結果として「充実して 生きた」といえるということであろう。この場合「充実した」とは、本人が「〈これ でよし〉と満足できる」ということだともいえる。また「置かれた環境が与える チャンスを十分に活用して、いろいろなことをした」といってもいいだろう。 〈充実した生〉が〈よい生〉と同じではないのは、「あの人は充実した生を送っ たかも知れないが、よく生きたとは言えない」という評価もあり得るからである。

〈充実した生〉かどうかの基準は当人の人生観・価値観である。これに対し、〈よい生〉 かどうかは、当人がどう思うかによって決まると主張されるとは限らず、立場に よっては「神による判定」や、ある原理原則に照らしての判定などが主張される こともある

これら二つに対して、第三の〈よい状態〉というのは、如何に生きているかの評価 と区別された、生が置かれた状態についての評価である。所与としての状態をどう いう範囲で見るかによって、QOLは生活の質であったり、生の質であったりする。

さてこう区別してみると、医療が直接関わる生の〈よさ〉は、〈よい生〉でも 〈充実した生〉でもなく、所与としての〈よい状態〉であって、医療活動は 〈充実した生〉を人が送るための環境を整えようとするものであるといえよう。 ただし生の充実にこのような仕方で間接的にであれ関わるということは、 決して「充実した人生が本当の意味で幸福な生だ」という立場に立つことではない。 そうではなく、何が真に幸福であるかを知らないということを認めるからこそ、 環境を整えるという場面を基本とし、せいぜい関わるとしても〈充実した人生〉 という場面にとどめておく、ということなのである。

ところで〈置かれた状態の善し悪し〉といっても 評価の観点はいくらでもあり得る------経済状態、親兄弟の状況、 、社会的地位、住宅環境等々。そこでまず、置かれた状態のよしあし について一般的に考えたうえで、医療は生が置かれた状態のどのような面を に関わるかについて考えたい。



生きる環境と生きた結果の満足・不満足

次に、生が置かれた状態を「環境」と呼ぶと、〈環境の中で生きる〉という枠組みで ことを考えることができる。つまり、生が環境の中で営まれ、その結果に人は満足し たり不満足だったりするのである。

*図参照

QOL一般論における二つの立場

さてここで、QOLの一般理論において、QOLを生活者の意識面中心に考えるか、おかれてい る環境状態について考えるか、という二つの傾向があるという。(金子勇・松本洸編著『クオリティ・オブ・ライフ---現代社会を知る』(福村出版 1986年) 29頁。) 前者は凡そ、生活者が生きた結果満足ないし充実しているかどうかに注目し、 結果として満足ないし充実した生こそQOLの高い生である、と考えるものと言って よいだろう。それに対して前者は、環境が生活者にどれほどの快適さ等を提供しているか を評価しようとする。たとえば新しい住宅地について、上下水道がととのっている、スーパーや医療機関、リクリエーション施設が充実している等をもって、「QOLを追求した街造り」と称するのは、こうした理解による。



データとそこから得られる情報との区別

だが、私の見る所ではこの二つは必ずしも相反する立場ではない。 確かに両者の間には、
環境が個体に与える自由度------環境のなかで生きる------結果としての充実 度
という生活の枠組みのなかで、環境を評価するか、結果を評価するかのずれがある。

ところで、結果として生活者が満足ないし充足しているかどうかを調査したとし て、そこから帰結するのは「したがってこういう所をこう改善しよう」という 環境の改善に関する方針であろう。人のよりよい生のた めに周囲にできることは環境の設定でしかないのである------馬を水飲み場に引っ張 って行くこと、つまり水のある環境を提供すること、はできるが、無理に飲ま せることはできない、というわけである。

逆に環境のよしあしを評価することは、その環境で生きる人の満足度・充足度を データとして、その要因としての環境を評価する、という仕方でなされる。 そもそも「よい環境」というときの「よい」とは、「その環境で生きて見るならば、 満足するであろう」という意味にほかならないのである。先の「QOLを追求した街造り」 というのは、「よい環境」だと、つまり「ここで生活なさればきっと満足なさいます」ということにほかならないのである。



QOLは環境の評価

そこでいずれの立場にたつにせよ、生活者の満足・充実ないし不満足・空虚とい った評価をデータとしつつも、その生活者の主観的評価で終わるのではなく、そのような 結果をもたらした様々な要素のうちから要因となっている環境を割り出し、環境 のよしあしを評価するというプロセスが必須となる。したがって、両者は実際上は それほど違ったことを考えているわけではない。しかし、満足度というと、それは いわば素データであって、医療の現場においてもそのデータから必要な情報を 得る時には、いわばフィルターをかけて、公共的に認める要素を取り出しているのであり、 それは、満足度といういうよりは、環境についての情報となっている。 実践的な活動である、医療としてはそれは当然なのであって、環境についての情報だからこそ 環境を改善する余地があるか、どう改善すべきか、と次の行動をとるための情報となり得る のである。 そこで、環境が生活者に提供する生の評価を〈QOL〉として理解することを提案したい。

*図参照

生活者の充足度の要因となる環境を割り出す過程を経て、環境のよしあしは 単に生活者自身の個人的な評価ではなく、公共的な評価となる。 そして、今私たちが問題にしている事柄から言って、ここではQOLを環境について のかかる公共的評価のこととして定めるほうが適当だろう。すなわち QOLは、生活者の評価をデータとしつつも、そこからそれなりのフィルターをかけて取り 出された、生活がそこでなされる環境についての公共的評価である。



QOLの一般的定義

では「生きた結果の満足度・充実度をデータとして、そのような結果に対する要因としての環境の評価」としてQOLを把握した場合に、QOL評価の一般的物差しをどのように設定することができるか、という点について。

実際の使い方を見ると、例えば「快適な環境」というのは、そこでは生活者が 快適に生活できるということだが、それはその環境のなかで生きる際に、無意味な 抵抗がない、つまり自由に振る舞える結果、快適と評価される、ということではない だろうか。また、例えば身体に障害があって自力のみでは歩けない人がいたとして、 車椅子が提供されれば、その人はより自由に行動できるようになるし、さらに 道路や建物に車椅子の動きを考慮した設計がなされれば、行動範囲が広がることになる。 こういうときに車椅子自体および車椅子の通行のための各種設備はその人の生きる環境を改善し、その人の生きるチャンスないし選択の幅を広げるものするものであって、つまりは自由度を高めるものである。そのことを「QOLを高める」と私たちは言っているわけである。その他の事例を考え合わせて、私はQOLについて次のように理解・記述する ことを提案したい:

一般にQOL評価は、 評価の対象となる環境が、その環境に置かれた人の人生のチャンスないし可能性(選択 の幅)をどれほど広げているか(言い換えれば、どれほど自由にしているか)、 を基準とする。
このように提案すると、「緩和医療にとってQOL評価に肝心の、痛みといった指標は この定義ではカヴァーできないのではないか」という疑義が出されよう。それもカヴァー しているということを次に申し上げる。

私の身体もまた生の環境

  さて、以上は人の置かれた環境の一般的評価としてのQOLの話であるが、これと医療における人の状態のの評価とはどのような関係にあるのだろうか。

まず医療が医学的関心のもとで注目するのは、人をそれ自身としてみた時の状態 であることが認められるであろう。すなわちその人がどの様な社会のなかに、またどの ような住宅の状況に置かれているかといった、当人を取り巻く環境を見るのでは なく、当人自身がどうあるかを、人が置かれた状態として評価しよう とする。つまり、 医学的評価は、(ある人以外の事物が構成するその人の生き る環境をではなく)その人自身をその人の生きる環境として対象とする。 そこで、こうした医学的QOL評価の対象となるもの------医学的に見られた人間自身 ------を〈身体環境〉と呼ぶことにする。ただし、ここでは、精神のあり方も、状態として、また本人が生きる環境として見る限りは、〈身体環境〉に含まれる。

*図参照

そこで、先の一般的QOL評価を医療の場面に適用するならば、次のようになる:

医学的QOL評価は基本的に、 ある人の身体環境が、現にその人の人生のチャンスないし可能性(選択 の幅)をどれほど広げているか(言い換えれば、どれほど自由にしているか)、 に注目してなされる。
例えば、身体の動きの可能性(ほぼADLとかPSとか言われるもの)は、当然その人の 活動の自由度の問題である。

例えば、「痛み」をはじめとする様々な苦しみもまた、その人が生きるということを不自由にする要素である。ひとつにはその人が欲しない状況を強制的にもたらし、その人を束縛していることによって。 また、ひとつには痛み等は、それらがなければできたであろう、様々な 生の活動から人を引き離すことによって。



医療においてQOL評価の対象となる環境

ただし、医療活動においてなされるQOL評価は、医学的QOL評価に 限られるものではない。この表は医療においてQOL評価の対象となり得る環境を 挙げたものである。

ただし、医療の過程でなされるQOL評価が、これらの環境の全てを対象にしているわけではないし、またそうする必要もない。何のための評価であるかに応じて、適当な範囲の環境 が選び取られる。

身体環境
身体の活動可能性; 身体的情態; 精神的情態(情緒)
例えば、ある抗癌剤の評価の一部としてのQOL評価は、身体環境のみ を対象とするであろう。
医療環境
だが、ある患者が医療を受けているという場面で、その全体に 目を配るようなQOL評価は、身体環境のほかに、医療者側との関係・コミュニケーション、医療の決定において患者は自由を得ているか、ということから、さらには入院であれば病室という環境、通院であれば待ち時間の長さとか、待つ場所の環境 といったこと、つまり医療がなされる環境が評価の対象となる。
人生環境一般
さらには、ことにターミナル状態にある人にとっては、医療環境がその人の生きる環境全体であらざるを得ない以上、医療者はその人の生全体に関わることになり、そこで生きる環境全体(家族関係、社会での位置等々)が医療におけるQOL評価の視野に入ってくるのである。
状況認識
私自身が私が生きる際の環境になるといって、身体を環境としたが、さらに そうした環境のなかで、置かれた状況を認識しつつ行動を選び取る私自身も また生の営まれる環境と看做すことができる。 この場面では、例えば自己の病状をそれなりに適切に認識していることは、 今後の生き方を選択することをより自律的にする、という意味で、自由度を広げる ことになる。言い換えれば、病状の適切な認識は、情緒面にいい影響を与えるから といった理由によってではなく、認識することそれ自体がQOLを高める要素なのである。 同様にして自己が置かれた様々な状況を知ることは、人をより自律的にする。
ところで、いわゆる宗教が教えるような、また哲学が探求するような意味での 世界の中での自己の位置の認識、言い換えれば自己と世界を支える究極的根拠 の認識といったこともまた、この状況認識のひとつに数え上げることができよう。 しかし、これについてはどう認識するのが適切かについて、公共的な評価はできない のである。したがってどう認識するのが人をより自律的にするか、自由にするかは 判断できない。
私は何でもかんでも、QOL評価の対象にしてしまえ、と主張しているわけではない。むしろ、ことにターミナル・ケアの現場において、QOLという概念が必要以上に拡大解釈されて使われているのではないか、と思っている。次にその点に触れるが、私の 基本的主張は、人の自由度に関わる環境の話であるかぎり、そして公共的に妥当な価値 評価が可能である限り、QOLの話としていくらでも広げてよい、しかしそれ以上に 広げるなというものである。

QOLに入る要素・入らない要素

自己の置かれた状況についての認識は入るという点は、今述べた通りである。 つまり、まとめると
自己が置かれた状況を的確に認識することは、以後の自律的な進路選択の前提であ って、それは人間としての最も基本的な自由にかかわる。
これに対して、先に、世界の究極的根拠とか超越者といわれるようなものとの関わりにおける自己の状況の認識といったことは、公共的に評価できない、と述べたが、このことは いわゆる「精神的QOL」ということについての、どちらかというとより消極的な把握を伴うことになる。

すなわち、いわゆる精神的QOLということで、 特に宗教的背景のあるターミナル・ケアに携わる人が考える 場合には、しばしば、「どういう死生観をもっているか」「人生の意味は」 「死を受容しているか」「宗教的なものは?」といったところまで QOL評価の対象にすることがある。しかし、こうしたことについては まず第一に、公共的なQOL評価はできない、という点を指摘したい。

これに対して、ある死生観なり宗教的信念を持った結果「死を受容して気持ちが安定 する(つまり情緒面のQOLが高まる)」ということを指摘しつつ、「だから、そうした死生観ないし宗教的信念を持った方がよい、とする論がなされることがあるが、 この議論はおかしい。もし、そういう論がまかり通るならば、「病状について 事実と違った楽観的な見通しを持った結果、情緒面のQOLが高まる」という ことをもって、「だから場合によっては嘘も方便なのだ」とも論じてよいことに なってしまう。

したがって、こうした事柄に関して「精神的QOL」と呼ぶ領域を立てることが 許されるとすれば、それは、人生の意味とか、死生観とか、超越者とかについて 考えることができる環境、また例えば宗教的活動をやりたければできる環境が あるかどうかを評価するものであろう。

また、この面に関するケア------いわゆるスピリチュアル・ケア------は、医療活動 として語られる範囲では、まずはそうした精神的活動のための環境を整えるものである。 さらにターミナル期においては、環境を整えると共に、その環境の中でそれぞれが 現に充実した生を送れているかどうかをも視野に入れることになるが、そこでも 例えば「ある信念をもって前向きに生きている」ということは、その人なりに「充実した日々を送っている」ということが評価されるのであって、決して「ある信念を持つ」 ということ自体が公共的によいと評価されるのではない。

以上、QOLということから公共的に評価できない要素は外す、ということの提案である。



医療一般と緩和医療

ここからは、QOLの以上のような理解を具体的な医療活動に適用する仕方について の幾つかのイントロダクションである。

まず、このようなQOL概念を使うと、医療活動一般の目的がきれいに記述でき、 緩和医療もその目的の下にあるものとして記述できるということを示す。

医学的(病理学的等)に患者の状態を------「癌性の腫瘍がある」、「血圧が 200である」等と------記述した上で、これについて〈良い・悪い〉という価値評 価をする際には、その評価は現在以降の患者の生の長さとQOLの推移の予測に基 づいて為される。すなわち、

ある時点における医学的にみた患者の状態は、それから死の時点に到るまでに 見込まれる各時点のQOLの総和が高ければ高い程よい。
このようにして、医療が従来注目してきた患者の健康状態の評価は、 身体環境に関するQOL評価に還元される。つまり「健康状態」は、(評価の時点における身体環境のQOLではないが)評価の時点以降の人生を時間軸に沿って見通した場合に予測される身体環境のQOLの積分ないし総和と等しい。

*図を参照

例えばある人について医学的状態の検査を行ったところ、 癌性の腫瘍がみつかり、放置すると今後のQOLはこう変化し、やがては死にいたる と予測されたとする。同時に、もし今根治手術を行えば、こういう曲線となる とも予測されたとする。すると、この医療活動によって、面積が確実に増える と判定されるのである。このように医療は、この面積を可能な限りより大に することを目指す活動なのである。 つまり、

医療行為の目的は、言い換えれば、行為の時点以降死に至るまでの身体環境に関するQOLの総和を可能な限り高めることである。
また
医療の目的は、人の今後の人生の自由度の総和を身体環境に関して可能な限り大 にすることである。
つまりこれが、冒頭で「QOL概念は、歴史的経緯からいえば、従来の医療の目的 設定に対する補完的なものとして登場したとはいえ、理論構成においては、むしろQOL 概念を基礎にして医療の一般的目的の方を書き換えるべきである」 と書いたことに相当する。

さて、これに対して緩和医療については、

緩和医療は対象となる人の現在のQOLを可能な限り高めることによって、 QOLの総和に寄与することを目指す。
ということができよう。

こうして緩和医療は、治癒的医療curative therapy と同じく、QOLの総和を大にすること を目指しているのではある。がこれと次の点で区別される------ 緩和医療は現在の生に関心を持つのに対し、後者は主として将来の生に関心を持つ。例えば外科的手術は一般に患者の現在のQOLをしばしの間(時には甚だしく)低める。それにも拘らず私たちは手術を治癒的医療として選択する。なぜなら問題の原因となっている 身体の部位を直したり取り去ったりすることによって、患者の将来のQOLはは るかによくなり、寿命ものびるだろうからだ。患者はよりよい将来のためにより よい現在を進んで犠牲にする。「良薬口に苦し」という諺はその文字通りの意味 においては、こうした犠牲を認容するものである。これに比していえば、緩和医療は患 者の現在のQOLに注目し、よりよい現在を目指す。だが、それはよりよい現在を目指す ことが、QOLの総和をより大にすることに寄与すると考えてのことである。



緩和医療を選択する根拠としての医療の一般的目的

*図参照

例えば、ある終末期の患者に対して、治癒的医療よりも緩和医療のほうに重きを 置く方針が提案されたとする。それは様々な種類の医療ないし措置を比べたうえで、 現在から死に至るまでの患者のQOLの総和がもっとも高くなるようなものを選んだ結果 の提案であるはずだ。 終末期の患者にとっては将来の生ではなく現在の生がもっとも重要であり(少な くとも後者を犠牲にして前者を取るということにはならない)、従って、患者の 現在のQOLの改善は、そのQOLの総和の改善に直結する。そういうわけで、 医療一般の目的設定に基づいてこそ、緩和医療が再優先の医療となるのである。

ほとんどの終末期医療の事例において緩和医療は最善の結果をもたらすだろう。またある場合には緩和医療と組み合わせた治癒的医療はさらに患者のQOLの総和を増 すであろう。また、ある場合には治癒的医療を止め、緩和医療に限定して医療活動を行う という方針が提案されよう。そこでも緩和医療の論理は、 患者の生を短くしようなどという意図ではなく、ただ患者のQOL の総和を増すことを意図するものである。 こうして緩和医療を再優先の医療として選択することはQOLの総和を可能な限り大 にするという医療一般の目的に沿ってなされることであり、 その際には死期を早めようとも延ばそうとも意図して いないのである------もっともその際に死期が早まるないし延びると予想はする かもしれないが。

さらに次の点を付け加えたい。複数の医療方針の候補があったとして、 それぞれのQOLの総和の評価を総合的に比べられるとは限らない。右の図のような 二つの曲線同士、またQOLといってもこの面ではこちらのほうが優れているが、 別の面ではもう一方が優れているといったことがあり得る。

こうした場合は、患者の人生観・価値観や人生計画によって選択が異なってくる 典型的場合である。例えば、次のようなケースを想定してみよう。

同じようなターミナル期にある患者が二人いた。ひとりはQOLが低くてもよ いから「娘の花嫁姿を見るまでは長く生きたい」として、化学療法を希望したが、 もうひとりは「この 論文だけは書き終えたい」ので、残りの生の期間が短くなってもよいから、執筆活動を 続けられるQOLを今暫く保持したいとして、緩和医療のみを希望した。
こうした場合、患者による価値評価は、医療によって得られる〈良い状態〉をどう使 うか・どう生きるかに関わっている。医療の目的は患者の身体環境を整えるこ とであるとはいえ、どう整えるかについて患者自身による人生にかかわる価値評 価の如何によって選択に違いが出るかもしれない。この点を考慮に入れることによ って、各々の患者個人に応じた目的および個々の処置の具体的選択が可能となり、 患者一人一人の生を尊重することになるのである。



安楽死問題とQOL

最後に、最近社会的話題となった事柄、安楽死問題に言及しておく。

安楽死ということで「苦しい生ないし意味のない(と思われる)生から、患者を 解放するという目的のもとに意図的に達成された死、ないし意図的になされる 死なせる行為のこと」としよう。 意図的に死をもたらす仕方は、積極的に、死をもたらす措置を選択するのと、 消極的に、死を当面避ける措置をとらないという選択をするのと、大きく二つに 分けられる。

死を意図的に選択する状況があるとすると、そこでは、 「このような苦痛に満ちた生ならば、死のほうがよい」と考えていることになる。 言い換えると、「このように低いQOLならば、死のほうがベターだ」という ことである。これは一昔前の生命倫理の議論における〈SOL論対QOL論〉 という対立図式において、QOL論者がとっていた考え方に他ならない。

生命倫理という学問領域では、QOL論というと、安楽死を認める方向にある 議論だと考えられやすい。それは、従来、SOL論対QOL論というかたちで問題が 整理され、前者が生命は尊いということを主張する立場から、少なくとも積極的 安楽死には否定的な方向を示すのに対し、QOL論は「生きるに価する生か」という ことを問題にし、価しないし、価するように改善される可能性がない場合には、 死なせることを許容する方向を示す、と説明されてきたからだ。

しかし緩和医療がQOLを中心的な視点として掲げる際には、同じQOLをキーワードに するにしても、「生きるに価しない生ならば、死を選択する」という方向で動く のではない。「生きるに価しないならば、価するようにQOLをなんとか改善しよう」 というのが、その目指すところである。(鳴かぬなら殺してしまえ、ではなく 鳴かぬなら鳴くまで待とうでもなく、鳴かぬなら鳴かせてみよう、なのである)

したがって、さしあたり緩和医療は患者を苦しみから解放することを意図するとはいえ、死による生自体からの解放を意図しはしない、と言おう。この場面に至ってもなお、〈QOLの総和を最大に!〉という医療の一般原則が妥当しており、医療者はそれに従って行為することができる。

ただし、QOLを高める意図で選択する処置が残りの生を短縮する結果となることはありえよう。 しかしそれは〈殺す〉ことにも〈死ぬに任せる〉ことにも該当しないだろう。 医療者は「QOLを高めよう」と意図したのであって、「死を予想した」かもしれないが、「死ぬに任せる」とも、いわんや「殺す」とも意図しなかったからである。

[註] したがって、可能な延命の方途を選択しないという選択が正当化されるのは、「死ぬに任せる」という意図でではなく、徒に苦しいないし無意味な生を結果することはQOLの向上という意図に反するという理由でそれが選択される場合である。

そうであれば、少なくとも緩和医療の範囲では、安楽死-積極的にせよ、消極的にせよ-が選択される場面はあり得ないことになる。

死以外には緩和の方途がないという状況はあり得るか

では、「QOL を高める(苦しみを軽減する)手だてが(死なせる以外には)なにもない」ときにはどうするか?

まず、東海大事件の判決のように、問題となる苦しみを「肉体的苦痛」に限るならば、\\ 眠らせること-セデーション(一時的な、また適当な程度とインターヴァルを組み合わせた)-が、肉体的苦しみから一時的にであれ避難する次善の方途としてある。 それは、患者を人間らしい生から遠ざけるものには違いないのであるから、解決策ではなく、 他に仕方のない時に、また患者がしばらくでも眠るという安らぎを求めた時にはじめて選択できる途であろう。

これと「死なせる」こととを比べたとき、後者が第一選択になるケースがあるだろうか。例えば例の判決の「他に手段がない」という条件に対しては、常に「セデーションという手段がある」ということになるのではないか。

もちろん、死ぬまでずっと眠らせるという仕方のセデーションは、結局患者の有意味な生を終わらせ、ただ徒に生かし続ける結果となってしまう、と評価され得る。それは意図的に死をもたらすのとどう違うというのか、と問われるだろう。

また、「精神的苦痛」というよりは自己認識における「意味のない生をこれ以上続けるのは私の尊厳を損なう」と患者が考える状況が、安楽死の条件として認められるならば、その時は、多くの患者にとっては、セデーションはごまかしの手段としか映らないだろう。

そうした「私はもはやこれ以上生きていても何の意味もない(生きがいがない)」と主張する患者がいた場合、どうか。緩和医療はやはり、そこでのQOLを高める努力を するのではないか。しかし、まさに欧米文化においては、これが認められる傾向に あるわけで、 安楽死-本人の尊厳のために、意図的に死なせること-が正当化される状況があり得るか、についてはオープンにしておきたい。

安楽死について、さらに詳しくはここをクリック!


以上、QOLについて基礎的な考え方についての提案と、そのいくつかの適用について 報告した。